李氏朝鮮時代の甲午農民戰爭

日本国の歴史教科書では最近朝鮮半島の歴史の研究が進み色々と書き換えられていているようですが、韓国の教科書の内容はこの限りではない。
それはともかく私の子供時代は明治時代・大正時代と言えば過去であり、歴史の中の世界でした。
今の子供世代は昭和も歴史の世界になってしまいました。
昭和生まれの私には何とも言えない寂しさがありますが、私にとっては昭和時代は子供時代の大事な思い出があり、今でも現在です。

朝鮮半島の歴史を正しく研究することは大事ですが、歴史学者は明治から昭和初期までの日本の正しい歴史もぜひとも研究して欲しいと思います。

荒木肇「陸軍史あちらこちら(196)」より

日清戦争のきっかけは?「東学党の乱」と答えたら昭和派

――昭和と平成の教科書を比べて(12)

▼東学党の乱とは?

 武器を手にして組織となって、権力に要求し、強制することを「乱」という。事の起こりは、1894年2月15日、朝鮮南部の全羅道郡で1000名あまりの農民がチョンボンジュンに指揮されて、グンを襲ったことにある。この地域は朝鮮の穀倉、米作の中心地帯だった。古阜では、当時、わが国へ大量の米を出荷し、官吏の汚職が横行して農民にそのしわ寄せが来ていた。李朝官吏の腐敗ぶりは有名であり、農民たちへの収奪の激しさは、わが国では似た例も見つからないほどである。

 なお、わが国は当時も主食の供給、自給率は低く、朝鮮米を輸入していた。これに目をつけない朝鮮商人はおらず、監督する立場の官吏を買収し、やりたい放題の買い占めを行っていた。こうしたことも韓国の学界の解釈では、「日本商人の不当な買い占め」になり、いつも韓国人は善人になってしまう。朝鮮官吏の腐敗も日本のせいである。

 チョンは下級官吏だった。農村では教養人であり、新興宗教だった東学の組織に入っていた。東学とは西洋の学問に対して、東学とした名づけ方である。チョンの指揮した農民蜂起は10日ほどで占拠した郡衙を捨てて解散した。これが周辺の農民に与えた影響はかなり大きかった。

 3月末に政府から派遣された官吏が東学信徒の弾圧を始めた。チョンは各地の組織の人間に蜂起を呼びかけ、古阜でもまた5月6日、全は再び武装して蜂起する。農民軍の総勢力は各地から集まって1万3000あまりにもなった。その構成員は、農民に限らなかった。「乱民」、「各ゆう小吏」、「法を犯し亡命する者」などと雑多だった。全と同じく地方の下級官吏も参加していたのである。

 この農民軍は、現在ソウルといわれる漢城を目指して進撃する。5月11日には出動した李朝政府軍とぶつかる。勝利した農民軍は全州を占拠してしまった。全州は李王家の本貫の地であり、湖南の政治・軍事の中心地である。忠義道でもこの動きに呼応した勢力が立ち上がり、地方官や両班ヤンバンの財産を没収するなどの行動を行った。

 両班とは文班(文官系の貴族)、武班(武官系)のこと。中国方式をまねた「科挙」の合格者であり、それを代々継承してきた貴族のことをいう。

 ついに6月10日、農民軍の出した改革案をミン氏政権に認めさせ、和約を行った。全羅道53州に「執綱所」を置いて、一応の農民自治を実現した。ところが、政府だって黙ってはいない。派遣を要請された日本軍によって、あっさりと制圧されてしまう。チョンも1895年の初めに捕えられ、政府の手で処刑されてしまった。

▼「農民戦争」とされたわけ

 東学は、1860年4月、慶尚道慶州の没落貴族(両班)だったチェ済愚ジュウによって説かれた。第2代教祖が組織の拡大につとめ、1894年ころには慶尚道、忠清道、全羅道の三南地方を中心に、江原道、京幾道、黄海道などにも信徒を獲得していた。農民や指導層としては一部の没落貴族がいたらしい。教えの中心となったのは次の4点である。

(1)西欧列強の侵入に対抗して国家と民衆の安全。
(2)「人すなわち天」といった平等思想。
(3)現世主義。
(4)実力行使=暴力の否定。

 昭和時代に「東学党の乱」と表記していたのは、蜂起に東学の関与が大きかったとされていたからである。現在は、研究者の間では、東学の宗教的役割は低かったと評価されるようになってきた。実際の参加者は、東学信徒ばかりではなかったし、(4)の根本教義とはずいぶんかけ離れた行動を農民軍はとった。

 もう一つは東学の役割を一部は認めても、「農民一揆」とは明らかに異なる「農民戦争」だという意見も強い。次はそれらの指摘である。
(1)闘争の地域が広く、内乱的様相があった。
(2)農民だけではなく、参加者の階層が広い。
(3)中央指導部があった。
(4)民衆を救済するといったユートピア思想があった。
(5)封建的な地域経済は崩壊してはいるものの、近代的な統治が行われていなかった。

 これらの特徴があることを「農民戦争」とする定義が認められている。こうしたことから、近年は「甲午農民戦争」という言い方が成立してきた。

「東学党の乱」というと、あたかも無知な農民たちが宗教的な情熱だけで無法に蜂起したというイメージがある。それが当時の李朝政権の統治の実態や、その前近代性が明らかにされ始めた。新しい研究は、ますます科学的になってきているといえる。


荒木肇(あらきはじめ)
川崎市立学校教員、陸上自衛隊研究者。陸自部隊・司令部・学校などで講話。

ところでわたしはこの農民戦争に関しては学校で習っていませんでした。
3学期の最後の方に、やっと江戸時代末期の歴史が終わった所で授業が終了しました。
日教組の方針で「教科書の内容が多いため、とても全部は教えることができない」という理由付けで、わざとゆっくり授業を進めて昭和の歴史は教えない方針だったのを後から知ったのですが。

明治時代の中国や朝鮮半島の正しい歴史を教えてはいけなかったのでしょうね。

 なお、わが国は当時も主食の供給、自給率は低く、朝鮮米を輸入していた。これに目をつけない朝鮮商人はおらず、監督する立場の官吏を買収し、やりたい放題の買い占めを行っていた。こうしたことも韓国の学界の解釈では、「日本商人の不当な買い占め」になり、いつも韓国人は善人になってしまう。朝鮮官吏の腐敗も日本のせいである。

これは従軍慰安婦問題でも言えることで、当時の朝鮮半島では朝鮮人業者が慰安婦を公募し、一部の悪徳業者が強制したものだが、娼婦たちが戦線の移動に伴って随時追従するため、慌てた軍が性病や衛生対策に慰安書を設けるなど関与するようになった。つまり、慰安婦は軍が強制したのではなく、業者に連れて来られただけである。本来はこれらの業者が弾劾されるべきであろうが、韓国の解釈では日本軍が慰安婦を不法に強制徴収し、日本人が悪い、常に朝鮮人は被害者なのである。

つまり戦場での性風俗は儲かる。従軍慰安婦はこれに目を付けた朝鮮人業者によるものであった。

軍用トラックで彼女たちが移動したのもまさか勝手についてくると言えど、歩けとはいえず、人情からトラックに載せたものであったのだが・・・この輸送が強制の証拠とされています。兵士たちから言えばお金を払っているにしろ、危険な前線に追従してくる彼女たちにある意味の親近感を持っていたのではないでしょうか。そうでなければ放って置くと思います。