義務教育が終わっても英語を話せない理由

中学校レベルの英語ですべて通じると言われます、中学校を卒業した者の内、英語の出来る人はまずいない。
私もちんぷんかんぷんです(ーー;)

英語の授業といえばリーディングとグラマー(=文法)。
その時は理解していても数時間後には忘れている始末w

少なくとも高校の英語は中学レベルの英語を使って授業中は先生も含めて日本語禁止にすれば、先生も誰もがわかる簡単な英語を使わないと授業が進まないので生徒も英語をだんだんと理解するのではないかと思うのですが。

日本人でも母国語は幼少期に家族といっしょに過ごしているうちに徐々に話せるようになります。
でも学校の国語の授業で習う日本語の文法は理解に苦労します。用言(動詞)の五段段活用ってなに?の世界です。

前田氏のコメントを読んで、その不可解な英語の理由がなんとなく腑に落ちましたので以下に転載します。

以下「頂門の一針2920号」より前田正晶氏の記事部分を全文転載。


英語教師の知識不足ガ問題

前田 正晶

私が唱える我が国の英語教育とその改革論について、昨日からメル友のYO氏と意見交換している。O氏も私の主張通りの教育ができる教師が少ないのではないかと指摘された。

私の英語教育と改革論のさわりを復習しておけば、「逆さの文化を始めとする相互の文化の違いを弁えていないか教えていないこと」、「相互の思考体系(アメリカでは二進法的であること等)の違いを知らしめていないこと」、

「謙遜対自己主張の違いがあること」(例えば”It’s a mistake, if you don’t buy our excellent product from us.”という売り込みをするアメリカ人)、「アメリカ人には観光案内をして貰った際には、質問をすることが謝意を表す習慣がある」(質問攻めをする)、「個人的なことを尋ねるような、いわば戸籍調べをしてはならないのがアメリカの習慣」等々である。

「繰り返して音読する。完全に暗唱できて意味がわかるまで音読を続ける」等の勉強法は論議の対象ではなかった、念のため。外国人離れした発音で教えていることは別な問題だし、会話能力などは最初から教える気がないのだからこれも別な問題だ。

私はここで問題にしたいのは、上記の点を弁えていない、というか教えられていない人たちが教師をしていることの方が問題だと思っている。その点は「ペラペラになることと、文化の違いを承知して対外国人の交渉に活かせるような教育ができないことの方が、適格な教師の数が少ないことよりも寧ろ余程問題だ」と思う。

私は告白すれば、アメリカ人の会社に転身してから「文化の違いの谷間に彷徨い、何と言うことかと予想もしなかった困難に直面し」それから初めてこの問題に取り組むようになったのだった。

文化の違いというと大きな問題のようだが、例えば「zipperでは滑らせて上下させる部品(英語で何と呼ぶか知らないのだ!)が日米で反対だった」とか「彼らは手招きするときは手のひらを上に向ける」とか「ノコギリを押して切るのがアメリカ式」といったことも文化の相違点である。

こういうことは、面白くもない英語の授業の間に、彼らの集中力を維持させるための気分転換に冗談のように語っておけば良い程度のことではないか。「意外にもアメリカでは”Ladies first”などは建前だっただけで、つい最近まで女性冷遇だった」などは受けるだろう。

「科学としての英語」で、文法がどうの、「この構文かここにかかって」や、単語のアクセントの位置に印をつけろだの、TOEICの点数がどうのと言われて、心から英語に興味を持つ生徒は学生が増えたら不思議ではないか。こういう全ての事柄の基礎には「文化の違い」があるのだ。それだけのことだ。

この程度のことを先生達が今から学んでも十分に間に合うのではないか。
私は英語は話せたが、文化比較論は40歳過ぎてから取り組まざるを得ないので覚えたのだ。因みに、私は教職にあったのではない。アメリカの会社員だったのだ。

教える側に問題があるのではないか:

私の「英語教育の問題点」に下記のようなコメントが寄せられました。

小生、パウエル国務長官の国務省での就任スピーチが秀逸であるというので読んでみたことがあります。正直、「なんだこれは」という感じでしたね。(中略)

あのスピーチ、読むだけなら中学生程度の単語の羅列ですよね。難易度の高い単語もなければ小難しい文法もいらない。けれども現代的、実用的な言い回しが幾つもあるということはすぐ見て取れました。そしておそらくこれが日本人が一番できないことなんだろうなということもわかりました。

これに対しての私のコメントは

これが出来るようにならねばなりませんが、我が国の英語教育の問題点は「英文学者を養成したいのかと思うような、アメリカの高校でも教材に使わない文学作品を採り上げて教えていること」かと思います。

私が子供頃からアメリカ人に教えられ、W社で日系人でワシントン大学のMBAに厳しく教えられたことは「簡単な(易しい言葉)を使って解りやすく、言葉をなるべく多く使って書け。これを言わなくても相手が解ってくれるだろうといったような以心伝心は英語の世界では通用しないと知れ」でした。

また、中学生程度の単語の羅列と見えた現象は思うに「慣用句」=idiom を巧みに使える人なのでしょう。これは極めて重要なポイントでしょう。

私が嘗て個人指導する機会があった商社の若手には「何故、そのような易しい単語ばかり使ってそんなに難しいことが言えるのですか」と言われたことがありました。これは自慢しているのでも嫌みでもなく、私はそう教えられてきたのでそれしかできないのです。

要するに、後難を怖れて言えば、「我が国では本当のEnglish(≠英語)が何たるかを知らない人たちが寄ってたかっていじり回し、”something like English”「科学としての英語を創造して、それを教えてしまったこと」が最大の問題点だと思います。帰国子女の辛いところは「単なる言葉」が「科学になっていた」ので面食らっている点でしょう。

アメリカ人に英文法を尋ねても知りません。(私が国文法をろくに覚えていないように?)私は彼らに「お前はscholarだからこういうことを知っているだろう」と半ばからかいながら英文法を質問された経験があります。

このような経緯があって我が国の英語教育では結果として、あるアメリカの技術者が高校3年の教科書を見て「日本では全員を英文学者にでもする気か。こんな難しい英文学作品を取り上げて教科書にする学校はアメリカにない」と驚愕させたのです。

教える方は難しくしないことには権威付けができないし、それが現実離れしていることなどには関心がないのではと疑いたくなります。パウエル長官のスピーチのような英文に「 文化と思考体系の違い」を加味すれば、素晴らしい英語使いができると思います。

しかし、究極的には「科学としての英語」で育ってきた教師たちには、ここまでやることは難しい課題でしょう。だが、そこを改革しないとことには何時まで経ってもKだのCだのという国の連中の後塵を拝することになりはしないかと危惧しております。こういう次元までできる人はいますが、遺憾ながら教員ではない実務の世界で奮闘してきた方々でしょう。

嘗て「英語教育を本気で改革するならば、そういう実務の世界で活動してきて引退した方々を三顧の礼で迎えるくらいの度量が求められる」という凄い投稿がありましたことを申し添えて終わります。私はこれに勇気づけられた訳ではありませんが、お恥ずかしながら1996年からご依頼を頂いた大学で英語の勉強法等を語るようになりました。


以上転載終わり。

文中の「It’s a mistake, if you don’t buy our excellent product from us.」は私でも何とか意味がわかりました。
「我々の素晴らしい製品を買わないのは、間違いだ」で、「something like English」は「英語のような何か」ですね。