まだ続く「八木秀次 vs 藤岡 信勝」の激闘

クライン孝子の日記から転載。

あれ!中西論文、「戦後最大の諜報案件『李春光』」? 

[氷山の一角]の間違いではないの

 
空花正人氏は『新しい教科書をつくる会』の立場から「日本教育再生機構」=特に八木秀次氏、今回「Will」に掲載された中西輝政氏論文を批判されています。

これには私も同感です。

ただし、当時『新しい教科書をつくる会』における内紛、とりわけ八木氏に対する西尾+藤岡両氏の「教授なる身分」、しかも「新しい教科書をつくる」立場をわきまえない醜い一方的な攻撃には、ある種の嫌悪を感じたものです。

なぜかといいますと、実はそのウラには、老獪な西尾+藤岡両による、新米の若い八木氏らに対するイジメ。しかもジェラシーらしきものがある。
自らが築き上げた組織を、次の世代にバトンタッチするのを惜しむあまり何としてでも自分たちの下において支配する=固持する。

これはまさしく権力闘争といってもいい。
そのためにいかなる手段を駆使してでも権力を放さまいとするいじましい権力への執着です。
当時の西尾氏のブログにはその様子が、ここまで書いてもよいものかと、つい目をそむけたくなるほどの陰湿なアタックで次々と自分を正当化するために、内部事情を暴露されていましたから。
これに、藤岡氏が相乗りされて、八木氏憎さで八木氏失脚?のために、裁判にまで訴えて、貶めようとされたというのですから。

今回藤岡氏は「Will」において、再び性懲りもなく八木氏攻撃の手を緩めないで例の中国スパイ事件と絡めてこれぞ八木氏攻撃の絶好のチャンスとばかり、八木氏非難に余念がありません。
私など、また、弱いものイジメがはじまったなとうんざりしてしまいました。

本来なら八木氏と中国社会科学院=李春光を結びつけて八木氏とその関連者を糾弾するなら、その延長線上にある岡崎研究所とそのトップである岡崎久彦氏との関係もオモテに出して問う必要がある。それなのになぜ、この件だけは伏せて追及しないのでしょう。

はっきりいいましょうか。
これ、自ら『長いものに巻かれる』ことを容認し怖いもの、強いもの、つまり権力の頂上にいる岡崎氏には藤岡氏も手が出ない、遠慮している。何か一言でも批判的なことを言って面倒くさいことになるのを恐れているのです。
だから、故意にこの周辺には触れないで逃げているのです。
そうしておいて、叩けそうな、叩き易い八木氏を狙い撃ちにして、叩きまくっている。

だからといって藤岡氏の主張に理+利があるのか、というと私など、?マークをつけてしまいます。
その一端ですが、つい最近、私は拙日記にて以下のように書いたものです。

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例えば、「新しい教科書をつくる会」とその後分裂して新しく「日本教育再生機構」が設立された時など、恐らく、これは誰かが背後で糸を引き、意図的に分断工作を企んでいるなと睨み勘ぐったものでしたが、今から当時を振り返ってみると、この推測ですがかなり当たったような気がします。
とりわけかつて共産党員だった藤岡信勝氏の行動に興味を持、注視したものでした。何しろ、氏の離党動機が「1991年8月から翌年8月にかけて文部省の在外研究員として渡米するにあたって『海外に長期滞在する党員は離党する』との党の規則に従って、妻とともに党籍を離れ、帰国後も離党の意思表示をして党に戻らなかった」というのですから。

したたかだなと思うと同時に、並みの人物では不可能な行動だと感じたからです。その藤岡氏ですが、これは八木氏から直接,お聞きした話で、ヴイキペヂアにも記載されているのですが

八木秀次への阿諛と攻撃

藤岡は思い込みや感情の起伏が激しいとされる。代表的な事例としては、つくる会の内紛が続いていた2006年2月22日未明、対立相手の八木秀次の自宅に「ふざけるな!」と書いたFAXを送って八木夫妻を脅えさせたことがある。

3月7日になると一転して「八木さんは将来ある、日本の宝ですと持ち上げ、3月10日夜には鳩サブレーを持って八木宅謝罪に訪れ、後日、マグロのみそ漬けを送ったがその後は「八木秀次氏はすでに中共の対日工作の窓口だった」「知識人として痴呆化しているのか」などと激しい言葉で非難している。藤岡は八木に対してこうした非難を繰り返しながら、自らの共産党離党時期に触れた略歴メモを八木サイドの作成・送信と決めつけ、名誉毀損で提訴し全面敗訴した。かつての同志へのこのような攻撃など、藤岡の行為は保守言論界や保守運動に今も大きな影響を与えている。

一方で、藤岡氏はこれぞとおもう強者に対しては、借りてきたネコのようにへりくだって見せ、以下のような一面を見せる

Voice平成17年5月号「『新しい歴史教科書』は90点」
例えば、岡崎久彦氏の藤岡氏の第一印象はべた褒めで

ここで私(=岡崎久彦氏)が今回この問題に関与した経緯を若干ご説明しなければならない。

 去年の初め頃だったように思うが出版社から短い手紙が届いた。
趣旨は、近く『新しい歴史教科書』の改訂版を出すのでお気づきの意見があればご連絡いただきたい、ということで、たしか、週の半ばに手紙が着いて、回答は週末までというようなことだった。一種儀礼的な挨拶状であり、意見といってもその本旨はせいぜいミスプリントの指摘ぐらいを期待している文章だった。

 私はちょっと気になって、藤岡先生に電話して、「本当に直す気があるのなら、私には若干意見はあります」と申し上げた。そうしたらば、藤岡先生と出版社の人が直ちに見えてそれから2日間私の意見を聞いて下さった。

 それは私にとっては感動的だった。「つくる会」発足以来私は何の協力もしていない。外から見れば、その活動を白眼視していると思われても弁解の余地もない。そんな私の意見を2日間にわたっ聞いて、それを教科書に反映させて下さった度量の広さ、良い教科書を作ろうというひたむきな姿勢には心を打たれた。

 そのうちに私を監修者の名に加えてもよいかとのお話があり、監修者となると中立性の問題があり、これを支持する言論が制限されるのを危ぶんだが、その心配はないということなのでお引き受けした。

とその返す刀で、自らも傷を負う形で2006年2月27日、八木秀次会長を解任してしまった。理由は、2005年12月理事会の許可を取らず中国へ赴き、勝手に中国へ行き、勝手に懇談を行い、更には帰国後に中国社会科学研究院・日本研究所長などを日本へ招待し現地の知識人と論争していた事にあるというのです。
ところがその真相ですが「理事会が真に危惧していた八木氏らのもうひとつの“暴走”───中国社会科学院の企図する日本攻略」ブログによりますと、

その(八木)氏の行動を擁護したのが、岡崎研究所の岡崎久彦氏である。氏は、八木氏とともに、育鵬社歴史教科書の監修者6人の一人でもある。

と指摘しそれとなくだが、岡崎氏を非難しています。。

それもそのはずで、この時期、何と岡崎研究所にて中国社会科学院日本研究所と、 - 日中安全保障対話を行ってメンバーである佐藤守氏など、以下のような感想をブログで公開しておられます。、
006-11-09 日中安保対話で感じたこと

先月の30,31日の二日間、中国社会科学院日本研究所から来日したメンバーと、岡崎研究所で「第3回日中安保対話」を行ったが、色々考えさせられた。

 第1回目の対話は、2000年9月に北京で行ったのだが我々は元自衛官3名と主任研究員の計4人で、北京側はスタッフを入れると10名以上、同時通訳つきで侃々諤々討論だった。

ー中略ー

ところで蛇足だが、中国の「“反日で尚且つ反政府”活動家」たちのサイトでは、岡崎研究所の「4人組」は中国本土で大変“有名”だそうである。その一人に私が入っていることは蒋所長自ら教えてくれた。しかも前回の私の「中国漫遊記」に書いた所見などが非常に参考になったので、今回も是非所見をブログに書いて欲しい、と要望された。本音を書いている私のブログを褒めてくれるなど、さすが!だが、情報網の現実を知る上では大変参考になる。来年の訪中が楽しみである!

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上記の事実を藤岡氏はご存知ないはずはない。

もし知らなかったとしらばっくられるなら「Will」にあの藤岡論文を掲載する資格など氏にはない!と思います。
(私の推測では恐らく、一時は岡崎氏に腰を折るようにご機嫌とりをして接近した藤岡氏のこと、この事実はすでに氏もご存知だったと思います、)
それなのになぜこの件に関しては、一切触れないで八木氏やその周辺の人だけに焦点をあてて非難されるのか。
この辺の不可解な事情ですが、私としては直接、公けの場にてお会いしてお聞きしたいくらいです。

今一つ、私の立場を今一度皆さんにお知らせいたします。
こういう現状の中にあっても、◆私は当時のごたごた事件も含め今も八木氏の立場を理解し、応援させていただくつもりでおります。

というわけで教育問題懇話会代表 空花正人氏より(筆者注:私も立場は氏と違いますが、同感です)

中西輝政先生は、我が国が誇る「中国工作員」情報に精通されている、第一人者、大御所です。
そのようなお方に申し上げるには忍びないのですが、一筆啓上いたします。

今を去ること6年前、平成18年春、雑誌『正論』平成18年3月号─4月号は、中国対日工作特集を行っていました。
当然のことながら中西先生は膨大な紙数を編集者から与えられそれは詳しい論考をお書きになりました。その同じ雑誌には、「つくる会会長、中国『反日の本丸』に乗り込む(八木秀次)」が同じく膨大な紙数を使って、中国社会科学院の主張が掲載されました圧倒的分量が支那側の定番の(新味のない!!)反日宣伝です。文を載せた人は「みなに知ってもらいたかった」といい訳をしていますが、正論読者を愚弄しています。

6年後、今度は雑誌『WILL』8月号に、「総力大特集 中国に反撃せよ」の劈頭に、中西先生の論考が載りました。題して「戦後最大の諜報案件『李春光』」です。
(1)支那の対日工作の闇、
(2)李春光の実態と日本の甘さ、
(3)スパイ活動と工作活動、
(4)解き明かされた李春光の目的、
と4章─16ページに及ぶ膨大な論考です。

しかしいくら読んでも、李春光の足跡をたどる文章には、ただの一度も「日本教育再生機構」との接触が書かれていません。
中西先生はご文で、中国社会科学院の正体を解説しているのに中国社会科学院と日本教育再生機構、そして岡崎研究所(岡崎久彦閣下主宰)との会合に関して、一言も言及がありません。

扶桑社の通信記事「虹」平成18年7月号にはっきりと、5月17日に開かれた「日中共同研究の会合」が示されています。
その年の10月30-31日には、岡崎研究所と中国社会科学院日本研究所との「日米安保対話」が開かれています。
その司会役が「李春光まさにその人」です。
また皇學館大學は長いこと中国社会科学院と学術交流しています。
テーマは支那には無縁な(学んでも実現不能な)、「わが国の地域福祉の歴史的背景と現在の地域福祉計画における地方自治体の役割について」考察を行ったものです。

李春光は、すでに大使館勤務前から、善良な中国人学者、あるいは研究者として、日本の政治家や学者など、日本の政策決定にかかわる人物に接触し、議論する、あるいは「意見交換」するという形で、国の政策や世論形成に影響を及ぼすメディア関係者への工作を行っていたと考えられる。(『will』8月号ーP41)

岡崎研究所は名だたる軍事専門家の集まり。
日本教育再生機構は、当時は準備段階、やがて安倍晋三政権におけるブレーンと自称するようになる頃の、スパイ工作の格好のターゲットであったはず。
まさにご文にかかれていることが進行したのです。
筒井や鹿野などの欲におぼれた、おっちょこちょい議員閣僚なら引っ掛かるでしょうが、日本教育再生機構や岡崎研究所に集う、我国保守言論界・知識人たる高名な方々が、自覚してかどうか同じことをしてどうなるのでしょう。

中西先生、私のような素人でもすぐに「何かお隠しになる事情でもあるのでしょうか、おかしいんじゃないですか」、と気付くのに、なぜ6年前も今も、御友人のことには目を塞ぎ、筆を止め、大衆に真相を伝えようとなさらないのでしょうか。

ぜひ分かりやすくご説明くださいますようお願い申し上げる次第です。

教育問題懇話会代表
空花正人 拝>>

さてここからは昨日お約束した永冶ベックマン啓子氏の「息子をドイツの徴兵に送って』を転載させていただきます。
ちなみに氏は、目下名古屋における「ビール祭り」のイベントのオーガナイザーとして活躍されておられます。
とても盛大なお祭りになったとのことです。 

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◆息子をドイツの徴兵に送って (1)

                       
永冶ベックマン啓子

私は南ドイツ バイエルン州の州都ミュンヘン市(人口135万人)ドイツで3番目に大きい町に在住で、現役の通訳・フリーのコラムニスト、分子整合栄養学アドバイザー等をしています。

パートナーは、グラフィック・デザイナーで会社経営のドイツ人ですが、今回私達の1人息子が自らの意志で、自分を教育したいと
兵役義務を選択し9ヶ月間、ドイツで一番厳しいと言われる山岳隊で兵役を経験しました。
1人息子だからといえ、特別な理由がなければ兵役免除にはドイツではなりませんでした。

ドイツ連邦の共和国の基本法に従い、満18歳以上のドイツ人男子に、現在でも9ヶ月間の兵役義務がある事を、日本の方で知らない人が案外多いのに気が付きました。
ミュンヘンでの国際児で兵役に行った男子を探しましたが、良心的兵役拒否で他の施設で奉仕活動をした男子はいましたが、他には見付かりませんでした。
そういう私でさえ、息子の体験を通して、今更ながら認識や自らの行動を新たにする事柄が多々ありました。

 息子 茂ベンジャミンは、2007年の7月1日から 2008年の3月31日まで、義務の兵役9ヶ月間を、ドイツで第一次、第二次世界大戦を通して優秀な将校を送り出し一番厳しいと評判の、南ドイツのバードライヘンハルの山岳隊で行いました。日本の昔の赤紙ならず、
ミュンヘン市は全て再生紙を使う事になっていますから、グレーの封筒で徴兵の手紙を受け取りました。
ドイツでも、昔は赤い封筒で徴兵の連絡が来たそうです。

その召集された9ヶ月間の間には、1ヶ月休暇がありますから、実質8ヶ月間の勤務ですが、大抵の週末は自宅に戻れました。勤務後は、携帯で話もする事ができ、息子の経験を聞いたり見たりしましたが、短期間で息子が急速に変化していくその様子に目を見張るほど驚き、感じる所が多々ありましてメモをしなら、原稿にまとめました。

さて、兵役義務9ヶ月間の中でも、特に最初の3ヶ月間の基礎訓練は、「 あれは厳しかったが、特別のいい時期であった、もう少し長く居てもよかった」 と懐かしそうに1年後に息子本人が振り返って思い出して言うのですが、今も私が何も言わなくても、生活態度が自発的に良くなり、いかに大きな体験であったかを母としても感心して再認識しています。

わが祖国の、多くの若者にもこの体験は必要ではないかと、是非体験して欲しいと思いますが、親や普通の教師では出来なかった、成熟した社会人になる為のドイツの人材育成の基礎教育を受けた実に真剣で意義ある深い体験でした。

戦後63年経過し、同じ敗戦国のドイツの若者達と日本の若者達をも考える時、この体験をしたかどうかで、国の将来まで影響してくる大切な人材育成教育でもある事に気が付きます。
 
歴史的には、1950年初代連邦首相コンラード・アデナウアー(CSU)とテオドア・ホイス連邦大統領が、再軍備の基本構想を準備作成し、1955年NATOに加盟して過去には決別して全く新しい連邦軍が誕生し、多くの激しい反対の国際世論があったにもかかわらず、翌年1956年ドイツ与野党一致の決断で、“制服をきた国民の学校”として導入された。

1957年 連邦軍(Bundes wehr)が創立され、18~45 歳までの全国民に12ヵ月間の兵役義務が課せられた。
この時から既に51年経過したが、ドイツ人男性は、初期ほど、ほぼ全員兵役を経験している事になる。
が、時代と共に国内、国際情勢共に変化が起きて、昨年の時点では 全体の30%位の男子のみが、兵役義務を果している。それより多くの若者が、福祉関係で奉仕活動をしている。これもまたなかなか良い社会体験ができ、更にドイツ福祉を支えている。
1949年から、良心的兵役拒否権が認められていますが、最近では、兵役に行きたくても、軍が縮小されているので、行けない様な状況もある。
息子が何を体験したか、聞いた範囲で何回かに渡り紹介していきます。
「 秘密もあって、全部は話せないからね」 
と最初から、念を押されていたのですが、なかなか口が硬い所がありまして、かなり苦労した時もありました。( つづく  )
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21世紀を迎えた今世界は混沌としています。日本もその渦て政治経済ともに、国際的視点に立脚し欧州からの情報収集が不可欠になってきています。欧州の国際情勢を日記風にまとめドイツ滞在歴40余年の経験を生かし、現地よりレポートします。
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メルマガ発行者: クライン孝子 (フランクフルト在住 )