伊勢雅臣「国柄探訪: 和歌のもたらす和の世界」

国際派日本人養成講座「国柄探訪: 和歌のもたらす和の世界」より全文転載

■1.高校生から89歳までの「歌会始の儀」

 平成最後の「歌会始の儀」が1月16日に開かれた。入選では最高齢89歳の元調理師・奥宮武男さんから、佳作最年少の高校生・山田涼凪君まで、合計29名が選ばれた。二人の歌を紹介しよう。

 高知県 奥宮武男
土佐の海ぐいぐい撓(しな)ふ竿(さお)跳(は)ねてそらに一本釣りの鰹(かつお)が光る

 新潟県 山田涼凪
くるくると右手でラケット回す時ガットに一瞬夏が光った

 空に舞う鰹やテニスラケットのガット(弦)が日の光に輝いた一瞬の情景が目に浮かぶ。高校生から89歳の元調理師まで、年齢、職業を問わず、歌の良し悪しだけで選ばれて両陛下・皇族の御歌とともに披露される「平等の精神」が「歌会始の儀」の特徴である。

 この平等の精神は万葉集にまで遡(さかのぼ)る。万葉集にも天皇の御製(ぎょせい、天皇の御歌)から少年兵士の歌まで平等に並んでいる。たとえば、次のような少年兵士の歌がある。

 父母(ちちはは)が頭(かしら)かき撫(な)で幸(さ)くあれていひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる
(父母が頭を撫でて達者でね、と言った言葉が忘れられない)

 両親から頭を撫でられたというから、せいぜい10代前半ほどの少年だったろう。東国から九州・太宰府までやってきた少年兵の父母を恋うる歌が、当時の人々の心を打って、万葉集に収録されたようだ。

・・・この書物に載せられている四千五百首もの和歌の中には、上は天皇から、下は農民・兵士・乞食に至るまでの人びとの作品が、貧富の差も地位の差も全く度外視して、それこそ文字通り全く平等に載せられているのです。
「平等」という言葉は現代の流行語でありますが、この平等の精神を、現実に実行していたのが「万葉集」であり、日本の短歌の世界であったのです。身分や地位や能力や財力については、人びとを平等にすることが至難でありましょうが、人の心をお互いに尊敬し合う面で平等の世界をつくり出すことは、私たち日本人同士が、各自の心の持ち方しだいで可能になります。[1, p1]

 短歌の入門書『短歌のすすめ』[1]の一節である。現代の日本も国民の間の「平等感」は世界でも群を抜くレベルにあると感ずるが、その淵源はこういう処にあるのではないか。

■2.テクニックよりも「まごころ」

 考えて見れば、1200年も前の古代において、学問もない少年兵士が歌を詠み、それが国家的歌集に収録されている事自体が不思議なことだ。世界でもそんな事例はないだろう。『短歌のすすめ』はこう指摘する。

(JOG注:万葉集中の代表的歌人である)大伴家持の歌よりも、名もない防人の歌のほうがいいということがありうるわけです。日本の長い歌の歴史を見てきますと、有名な人の歌よりも、名もない人の歌の方がはるかに真実がこもっていて、永遠の光を放っているというようなことは、いくらでもあります。[1, p62]

 なぜ、こんな事が起こるのだろうか? 小説に関しては、高校生の作品がプロの作家よりも良いなどということはあり得ない。良い小説を書くには、ストーリー作り、人物や場面の構想など、様々なテクニックと経験が必要だからだ。しかしわずか三十一文字の短歌では、言葉のテクニックよりも、そこに作者の「真情」、すなわち「真心」がどれだけ籠もっているが違いを生む。

 拙くとも真心の籠もった歌の方が、華麗な言葉遣いをしていても心の籠もっていない専門歌人の歌よりも優れている、という事がありうる。たとえば、上に引用した防人の歌と、次の百人一首中の有名な歌を比べてみよう。

 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

 白菊の上に初霜がかかって、一面が白くなって白菊がどこか分からなくなったので、当て推量でなら折り取ることもできようか、という意味だが、霜が降りたくらいで、白菊の花が隠れるわけはない。その誇張が面白いという訳だが、「父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる」という歌のように、我々の心に迫っては来ない。

 このように専門家人が修辞を凝らした作品よりも、素人の真心の籠もった歌の方がはるかに胸をうつ、という特質が短歌にはある。

■3.「おかあさん早く休んでね朝きついから」

「歌の良し悪しを決めるのは、どれだけ真心が籠もっているかだ」という事が分かると、真心を磨くために、子供たちに歌を作らせる、という教育方法があることも頷けるだろう。

 ある県の中学校教師となった北島照明という青年は、担当した1年生のクラスが、成績は学年最下位、反抗的な生徒もいて、担任の先生に対する挨拶すら十分に行われないという、いわくつきのクラスだった。

 彼は「どうにかしてこの情操の欠乏してしまった現象」から生徒を救い出そうと決心し、短歌の指導を始めた。若山牧水、正岡子規などの歌の中から、比較的理解しやすいものを選んでプリントし、それを生徒たちに手渡しながら、

 すなおに自分の思いをことばにしてみよう。ありのままに、隠さずに、どんな思いでもよいからことばにしてみよう。・・・かた苦しく考えずに、君たちの思いをそのまま出そう。[1, p27]

 と生徒たちに呼びかけた。第一回目の短歌創作では、生徒たちから次のような作品が寄せられた。

おかあさん庭は寒いよおかあさん早く休んでね朝きついから(男生徒)
父と母わたしたちのために働くが病気をするとみんな心配(女生徒)

 こういう短歌創作を何回か繰り返していくうちに、生徒たちは重要なことが分かってきた。

 歌をつくるのはことばが巧みで美しいばかりでなく、真実の思いをことばにすることであることが、生徒等は分ってきていた。そして、そのような心とことばだけが人の心をうつことも、である[1, p28]

 自分の「真実の思い」を見つめ、それを歌の形で示し合うことで、「学級のまとまりもすばらしいチームワークに発展してきた」と北島先生は回顧する。

■4.「和歌の『和』は、唱和、調和の『和』でもある

 中学生に短歌を詠ませることによって、「学級のまとまりもすばらしいチームワークに発展してきた」という成果が出たことに注目しよう。短歌は真心を歌うものだが、それを他の人が読むことで、短歌を通じて、真心が通うのである。

 先に引いた「父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる」の歌からは親を思う切々とした真心を感じとることが出来るが、作者は1200年ほども昔に生きた少年なのだ。それだけの時空を隔てても、少年の真心が伝わってくるとは、考えて見れば不思議なことである。

 短歌を「和歌」とも言う。

 和歌とは漢詩(からうた)に対する倭歌(やまとうた)の意であることは周知の通りです。しかし和歌の「和」は、唱和、調和の「和」でもあるのです。呼びかける歌に対して和(こた)える歌であったのです。[1, p166]

 和歌とは、大和の国、すなわち「大いなる和の国」にふさわしい「和」を作り出す歌なのである。

■5.徳川家康と上杉謙信

 和歌は真心を伝えるものであるから、和歌によって、その人がどれだけの真心を持った人かが分かってしまう。たとえば、次の二首を比べてみよう。[1, p221]

 徳川家康
のぼるとも雲に宿らじ夕ひばりつひには草の枕もやせむ

 上杉謙信
なれもまた草の枕や夕雲雀(ゆうひばり)すそ野の原におちて鳴くなり

 家康の歌は、「空にのぼっても雲には宿ることができないから、ついには地に降りて野原に宿るのだろう」という「理屈」を詠んだ歌である。ここには真心は感じられない。

 一方、謙信の歌は、戦陣の野宿で、同じく野に宿る雲雀への共感が籠もっている。その真心に、謙信の方がはるかに親しみやすい人柄であることが想像できる。

 和歌は真心を映し出す鏡であるから、歌を読めば作者の人柄も想像できるのである。家康は江戸幕府を開き、天下泰平の江戸時代を創り上げた偉大な政治家だが、自分の心を表に出さずに、近寄り難い印象を与える。その功績に比べて、今日でも謙信ほどには人気がないのは、このためだろう。

■6.石川啄木の二面性

 石川啄木(たくぼく)は近代歌人として人気があるが、心に響く良い歌と、そうでない歌の両方があって、それらを比べると、真心を歌うという和歌の本質がよく分かる。

 わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く

「わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし」とは一種の個人に閉じこもった概念的考察であり、そこから「秋の風吹く」というこれまた個人の世界の感傷的表現に逃げてしまっている。こういう歌には共感しにくい。これに対して、以下の歌はどうか。

 ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく
 かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川

 啄木の望郷の思いが切々と伝わってくる。啄木が愛されるのは、こういう切々とした望郷の真心であろう。同じ啄木の歌でも、概念的思考や感傷に閉じこもった歌と、郷里を思う歌を比べてみれば、人間の真心とはどういうものか、良く理解できる。

■7.「人間の真実というものが失われている」

 もう一つ、真心から離れた歌を紹介しておこう。

すがやかに晴れたる山をあふぎつつわれ御軍(みいくさ)の一人となりぬ

 この歌に関して、『短歌のすすめ』ではこう評している。

「すがやかに」というのは、すがすがしいという意味でしょう。「御軍の一人となりぬ」は、軍隊の一人となったという意味です。・・・故郷や肉親を離れて行く人に、そういう感情がありうるでしょうか。まして、みいくさの一人となるという場合に当然起って来る悶えや、悲しみ、家族への心残り、そういうものを乗り越えて行かねばならぬ決意――といった悲劇的なものが、全くないよう
にこの歌は作られているのです。・・・
こういう歌を国民学校の教料書に載せて、皆こんな風になれと教えることは重大な問題です。つまり、そこには人間の真実というものが失われているからです。[1, p88]

「父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる」の歌には少年防人の家族への思いが溢れていた。防人としての任務に就きつつも、家族への思いは断ち切れない、そこに「悲劇的なもの」が「人間の真実」として現れ、我々の心を打つ。

 それを圧殺するような全体主義体制では、人々の真心が通わない世界になってしまう。現代においては中国や北朝鮮がこういう非人間的な社会になっている。

■8.他者に対して真心を寄せる

 本編で紹介した真心の籠もった歌を、もう一度味わってみよう。

 父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる

 おかあさん庭は寒いよおかあさん早く休んでね朝きついから

 なれもまた草の枕や夕雲雀すそ野の原におちて鳴くなり

 ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく

 父母、おかあさん、夕雲雀、ふるさと、と、それぞれに対して、真心を寄せた歌である。自分一人の孤独の中で理屈をこねたり、感傷に浸っているような歌ではない。真心とは、他者に向けて思いを寄せる処から、流露するもののようだ。

 こうした歌に込められた真心が、読む人の真心を揺り動かして、互いの心をつなげていく。それが平等で、心の通い合う和の世界をつくる。我々の先人たちは和歌を通じて、そういう共同体を作ろうと努力してきた。万葉集や歌会始の儀は、そのような和の世界を作ろうとする努力の一環なのである。

(文責 伊勢雅臣)

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